こんにちは。

 

お訪ね下さりありがとうございます。

 

私の幼い頃からの生い立ちとピアノとの関わりについて書いてみました。

 

少し長くなりますが、よろしければご覧ください。

 

 

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『天真爛漫な少女時代』

 

3姉妹の末っ子に生まれた私は、生まれた当時から家にピアノがありました。

 

子供のための世界クラシック全集のようなレコードがあり、

子供ながらに、白鳥の湖やくるみ割り人形、ウィリアムテル、剣の舞など…いつも好んで聴いていました。

二人の姉もピアノを習っていて、私は4才の頃から当たり前のように、ピアノ教室に通い始めました。

当時、石油会社に勤めていた父親がクゥエートへ単身赴任中、母は3人の娘を一人で育ててくれました。

 

一番上の姉が小学五、六年生のころ、芸大の作曲を出た先生に、「ピアノの道に進むなら、芸大か桐朋のピアノ科の先生に変わりなさい」と進められ、そのから桐朋卒の若い先生に習うことになりました。

 

しかしながら、姉は基礎から直され、今までのレッスンの違いに戸惑い、勉強も出来た姉は、勉強で1番になりたい、と言いだし、ピアノは辞めることになりました。

 

母はせっかく良い先生を紹介して頂いたのに、と。私を変わりに習わせて頂けないか、と院長先生に頼み、私は幼少の頃からとても良い先生に習うことができました。

先生はとても優しく、インテリで、子供ながらに先生の持つ魅力に惹かれていました。

先生が出す音、指の形、音の美しさ、手の平でタッチの仕方を体を通して教えて下さいました。

その先生も音楽院を辞めることになり、小学1年生の私は2駅先の先生のところまで通い始めました。

 

『小学校時代の大怪我』

 

明るく活発な少女で、走ること、泳ぐこと、テニスに、ドッチボール、サッカーも好きで、毎日休み時間は外で遊んでいました。

そんな活発な少女でしたからある時、右肘を複雑骨折してしまいました。

 

私は転んだ時、自分で折れた骨の音が聞こえました。

体中から、油汗が出て、保健室まで歩くのも息、絶え絶えです。

整形外科に教頭先生と行って、骨が欠けている、折れるより大変な怪我であると言われ、子供ながらに大変なことになった、と覚えています。

 

手術に入院、リハビリの日々が1年以上続きました。

レッスンもしばらくお休み。でもその頃、私は自分で左手の不器用さを感じていたので、左手だけの練習を続けていました。

怪我をしてから1年後に右ひじに入れたボルトを取る手術を又することになったのですが、

成長期にあたり、骨がボルトを覆ってしまい

手術はボルトを抜けずに終わってしまいました。

 

以来私はずっとボルトが抜けないままピアノを弾き続けることになるのです。

 

 

『両親にピアノを辞めるように言われる』

 

リハビリは子供ながらに辛く、毎日行くのがとても嫌でした。

それも、肘にはボルトもはいったまま、、

ピアノの練習も進まず、両親は5年生だし、ピアノの道に進むのにそんなに大怪我をしては無理だ、

辞めた方が良いのでは?と私に勧めてきました。

 

私はその時、当たり前だったピアノがなくなるかもしれない、先生に会えなくなるかもしれない。

そして自分を作ってくれたピアノがなくなることに凄い不安を感じて、

両親の反対を押し切ってピアノを続けさせてもらいました。

 

この経験は、初めて私にとって、「ピアノとは私にとって何なのか」

子供ながらに深く考えた、痛くも、貴重な経験でした。

 

6年生の頃、少しずつピアノが弾けるようになって、

ショパンのワルツを発表会で弾きました。

同門の保護者の方に、「弓ちゃんのピアノは本当にいいね~おじさん、弓ちゃんのピアノ大好きだよ」とお褒めの言葉を頂いて、とても嬉しかったのを覚えています。

その方は本当にクラシック音楽が好きで、詳しくて、私はその方に認めて頂き、叉褒めもらって、初めて自分はピアノが上手なんだ~、こんなに喜んでもらえるんだ~と思い、とても励みになりました。

 

中学生時代も活発に、クラス委員長や文化祭実行委員長など、様々な役と、部活はテニス部に1年だけ入りました。

学年内でも、かなり上手だったのですが、やはり右腕の痛みが出だして、1年生の終わりに退部しました。

テニスも大好きだったけれど、ピアノが弾けなくなるのはもっと困る。

自分の危機意識に従いました。

 

叉、その頃楽典やソルフェージュのレッスンも始まり、とても忙しい毎日になりました。

レッスンは定期テストで練習が出来なかった、などと言い訳も通用しない感じで、毎日勉強もレッスンも頑張っていたと思います。

 

『高校時代』

 

ピアノの練習を優先に考えて、地元のそこそこの進学校に通いました。

 

その頃、先生が子育てでレッスンが急にお休みになったり、叉しばらくご主人様の留学で日本を離れることになり、私は他の先生に里子にだされ、のんびりレッスンを続けていました。

この頃、やはり自分の中で上達に不安を感じながらも代行の先生に通うしかなかった状態が続きました。

2年生後半くらいでしょうか、先生がウィーンから戻られ、レッスンが再開されました。

 

曲も難しくなり、そこそこ弾けるけれど、何か摑み所のない演奏だったと思います。

今、思えば自分自身が曲を良く理解していない、見えていない、そんな感じでしょうか。

自分がわからないものは人に伝わるはずもありませんからね、、

 

『大学受験に失敗』

 

高校時代後半、音楽の道に行くことを決心したものの、学校も休まず通っていましたから、練習時間も足らず、桐朋の受験に失敗。

音楽大学は併願が出来ないので、浪人生活が決まりました。

幼少から教えて下さった先生に、この機会に先生を変えてみたら、と勧められ、作曲の先生にお願いして、桐朋の山田先生を紹介して頂きました。

 

『山田朋子先生との出会い』

 

山田先生は桐朋のピアノ専科の先生ではありませんが、とても厳しい先生で、門下生には毎日コンクールに優勝、入賞するような方がたくさんおられました。

私は浪人時代、三鷹台と等々力にあるピアノのレッスンと、作曲家の福田先生のところに

毎週通いました。

山田先生のレッスンでは始め脱力の仕方を徹底的に教えられ、曲を弾くことは許されませんでした。

 

私は受験の課題曲のショパンのエチュードを一曲でも多く仕上げたかったのですが、2ヶ月くらいドレミファソ、、ばかり。

指の腱が痛くなり、歯ブラシも持てなりました。

そのことを先生に話すと、「あなた、そこまでやったの、もういいわ、モシュコスキーのエチュードを来週持ってきなさい」と言われ、しばらく練習すると、自分でも音が変わった、弾きやすい、自由に打鍵できると

新たな発見がありました。

その後定番のベートーベンのソナタなど、ただ楽譜通り弾くだけではなく、アーティキュレイション、楽曲分析、フレージングなどの教えを受け、それをかみ砕いて理解すると、自分で曲が見えてくる、そして表現しやすくなり、それを伝えることができるとわかり始めました。

 

その後山田先生の先生である松岡貞子先生に私を連れて行って下さり(幼少の頃、内田光子さんを育てた名教授として有名な方でした)

お二人の厳しくも、熱意あるレッスンに励みました。

私は自分がどんどん変わっていく感覚を感じながら受験に挑むことができました。

 

途中弱音を挙げて、脱落する同門の生徒さんもいた中、もう背水の陣、まな板の上の鯉状態でした(笑)

ここまで厳しいレッスンを耐えられた受験生は私しかいないな、そんな気持ちで結果を気にすることが、とても小さく思えたのです。

 

『念願の桐朋合格』

 

小さい頃から音楽の道に進むなら、芸大か桐朋に決めていた私は、厳しい浪人生活を経て、念願の桐朋に合格することができました。

入学後も松岡先生と山田先生のレッスンが続き、火曜日の松岡先生のレッスンになると、胃が痛くなる思いもしました。

先生の前でわずか4小節弾いただけで、「あなたの1週間が目に見えてわかるわ!」と。

プロの洗礼を受けたような衝撃を受けました。

ピアニストは舞台に立てば全てが見えてくる、そして見られている。

それが音となり音楽となることの厳しさを教えられました。

一音一音、考えて音を出すこと、その自分の音を責任持って聴くこと。

これは新しい発見で、弾くはいいが、聴いていない。

聞こえてはいるが、聴いていない。

 

始めは何を言われているのか、よくわかりませんでしたが、私はようやく自分は自分の音を聴いていなかったことに気がつきました。

するとどうでしょう。

 

自分で練習しながら、どんどん自分の足りないところが見えてきたのです。

そして、先生に言われなくとも曲を理解し、作り上げる楽しさがわかってきたのです。

松岡先生には優秀な生徒さんがたくさんおりましたが、先生は一度として人と比べることなく、私を指導してくれました。

 

しかしながらこの頃から松岡先生はご高齢による体調不良が続き、私は2年生から

大橋京子先生に見て頂くことになりました。

 

大橋先生はそれは上品で美しい先生でした。

ご主人様は世界的に有名なバリトン歌手の故大橋国一さんで、先生は私の演奏を「歌心があるわね、歌心だけは誰も教えられないのよ、音楽で大切なのはテクニックだけでなく、歌心。ピアノのは一番歌心を出すのが難しいのよ」と、歌心がある私?をよく褒めて頂きました。

 

松岡先生から変わったさみしさもありましたが、私は自由に音楽を表現できる楽しさと、自分に自信を持たせてくれた大橋先生のお陰で、音楽が常に響き合う学び舎の中でで、4年間厳しくもたくさんの輝きを持った学生時代を送ることができたのです。

 

卒業間近になり、将来のことを考えて、私は両親に黙ってヤマハピアノ専科のシステム講師として講習を受けたりしていました。

何故なら、両親は私に留学を勧め、もっと勉強をさせて上げたいと思っていたからです。

 

私はできれば留学も考えてみたいところでしたが、金銭的にこれ以上親に負担をかけたくもなかったし、第一級のピアニストになることが、どれだけ大変なことであるかもわかっていたので、ヤマハで少し指導の勉強をしながら、自分の身の丈にあった演奏活動を続けることにしました。

 

卒業後ヤマハで25人、自宅で20人くらいの生徒さんを教え、自分の演奏活動のための時間も作り、山田先生や大橋先生のところにも通っていました。

教えるばかりだと、身の細る思いがして、指導者としても誰かに学びを受ける大切さも実感しました。

時にはピアニストの友人とジョイントコンサートを開催したり、

音楽事務所からの依頼で各地で演奏会に出演したり、東京シティーフィルとコンチェルトを共演するなど、叉夏にはショパンコンクールの審査員のピョートルパレチニ氏のレッスンにスイスやパリまで出向きレッスンを受講するなど、充実した独身生活を過ごしていたと思います。

 

演奏会の活動を進めながら、生徒さんは国立音大、武蔵野音大、学芸大音楽科、東邦音大などに合格する生徒も多数いました。

 

『幸せ絶頂中の結婚生活』

 

20代後半、私の音楽生活に理解があり、私の演奏活動をずっと支えてくれた主人と結婚しました。

生まれ育ったさいたま市から、世田谷に引っ越し、ピアノが置ける広いマンションに移り住みました。

大学受験を控えた生徒さんは自宅でレッスンをし、小さな生徒さんは週1日だけ数人出張で教えていました。

毎日幸せを感じながら、第一子出産間近までそのような生活が続きました。

 

「待望の男子誕生」

主人は第一子に息子が生まれ大喜び、私の大好きなピアノ、ベーゼンドルファーをご褒美に主人が買ってくれる、と言ってくれて、生後4ヶ月の赤ちゃんを抱きながら、浜松まで試弾して、とても美しい音色のベーゼンドルファーを選びました。

それは子どもが生まれても私のピアニストとしての道を応援してる、という主人からのメッセージだったと思います。

私はそのピアノで最後の受験生だけ、レッスンを続けていました。

続けて、第2子の娘も生まれ、、

 

そんな幸せ絶頂の頃。。

 

 

『ピアノの蓋が開けられなくなる』

 

1998年、息子が2才になっても発語せず、区の発達センターや療育機関を駆け回り、不安な毎日を送るようになりました。

息子に障碍があるかもしれない、、

 

やはり不安は的中して

2才半の頃、重度知的障碍を伴う自閉症と診断されました。

 

私は心が氷つくような底知れぬ悲しみを感じました。

まさか、自分の子どもに障碍があるなんて、、

 

2才半の息子と1才の娘の子育て。

 

さいたまの実家の母もそう頻繁に手伝いには来れない中、息子の療育が始まりました。 

この子をどうやって育ていこうか、、

 

『障碍のある子育ての中で見えてきたこと』 

 

私は今まで大学受験で試練はあったものの、そこそこ何でも出来た人だったと思います。

 

偏差値世代に生まれ、成功成果主義のような偏った価値感がありました。

 

優秀な人が偉くて、成功している人が立派、みたいな価値感です。

 

それは私の生まれ育った環境がそうしてしまったのかもしれません。

私は医者の息子の父と、16才で両親を亡くしながらも、当時にとしては珍しく早稲田大学進学のために東京に上京した母の間生まれました。 

親戚は医者や弁護士、芸術家や学校の先生などが多く、優秀で当たり前のような環境だったのです。

 

自分の子どもも優秀とまでいかなくとも、誰しもが抱く夢と希望くらいは持っていました。

 

そんな中、ある一冊の本が私を救ってくれました。

 

『福祉の思想』との出会い。

 

当時、私は自分の持つ価値感と目の前にいる愛すべき息子との不安と戸惑の葛藤の中にいました。

 

ある時、ふと立ち寄った本屋さんの障碍コーナーで

糸賀一雄先生の書いた「福祉の思想」という本を手に取りました。

 

障碍の子を育てる本はもういくつも読み漁っていましたが

 

「福祉」という言葉に自然と手が伸びたのです。

 

その本をほんの少し読んで見たところ、私は自分の価値感が崩れ出す勢いと、糸賀先生の言葉が生み出す力に心が揺さぶられ、私が本当に求めていた哲学がその本にはたくさん書かれていることに気付きました。

 

私は夢中でその本を買って読み、私は自分の価値観を大きく変えていったのです。

 

2才半の息子のために世田谷から赤羽まで、当時厳しくて有名な発行協会に毎週年子の娘を連れて通いました。

泣きながら療育される息子をマジックミラー越しに見つめ、指導されたことを毎日復習して、次の週には克服していきました。

先生がやること、やり方、全て真似をして、息子が少しでも生きにくさを克服して、

幸せなになってもらいたいと、思ったからです。

 

この頃、発行協会には自閉症教育のパイオニアの石井葉先生がいらして、その厳しさと、ご年齢、お姿もかつて私を指導してくれた松岡貞子先生によく似ておられ、お母様方が先生の厳しさに困惑する中、私は絶対的な信頼を持って、石井先生の指導についていきました。

 

するとどうでしょう。。

教育困難であった息子がみるみると人が変わっていくのです。

こちらが真剣であれば、ちゃんと息子にそれは通じていることがわかり、私は大きな喜びと息子の教育に生き甲斐を感じ始めました。

 

息子も幼稚園を決める年になり、私は自閉症教育専門の武蔵野東学園を希望しました。

当時は世田谷に住んでいましたから、登園の送り迎えも大変です。

 

私はすっかり息子の教育に夢中で、しばらくピアノの蓋も開けられなくなる時が続きました

 

『ベーゼンドルファーを手放す』

 

当時の世の中は、銀行統合、証券会社の倒産など、社会的に不況が続いていました。

 

主人の会社も同じく経営が苦しくなり、以前のような生活が続けられる保障もありません。

 

私は武蔵野東学園に通い出した息子の成長に毎日喜びを感じ、今後も小学校から高専までずっと通い続けさせてあげたいと思いました。

しかしながら、私立のため教育費も多額になりそうです。

 

私は美しい音を奏でるのに、弾き手のいないベーゼンドルファーを見つめながら、

息子と娘のため、そしてピアノのためにも、ベーゼンドルファーを手放す覚悟を決めました。

 

主人は最後の最後まで反対していましたが、それは私の息子にかける覚悟の現れだったのです。

 

『乾いたスポンジが水を吸うように』

 

私は幼少の頃から、常に一緒にいたピアノを、そしてどんな時も辞めなかったピアノを

息子のために手放し、息子が通う学園がある武蔵野市の小さなマンションに引っ越しました。

 

一度は絶望的な気持ちになったものの、

日々の息子の成長に喜びを感じ、娘の存在にも救われ、安心して子供を預けられる武蔵野東学園に通えたたことは私達家族にとって、とても幸せなことでした。

 

私は人一倍、学校の役員を引き受け、息子と娘の教育に前向きに取り組んでいました。

そして、しばらくすると

息子もやっと一人通学が出来るようになり、私は少しずつ時間が持てるようになりました。

又、息子も私が居なくても、主人と留守番が出来るようになり、私は時間の許す限り、コンサートにもやっと行けるようになりました。

そんな中、毎年行われる

大学の同門のコンサート、「春の響き」に10年振りに行くことができました。

 

懐かしい仲間達、先輩後輩、キラキラしていた学生時代の気持ちになりました。

 

舞台に立つ仲間たちは、それはそれは私には眩しく映りました。

 

私もかつて同じ仲間であったのに、、何か別の世界を見ている感じがしました。

一人帰り道、同じように音楽を志していた頃が懐かしく、若い頃抱いていた志しに初めて感傷的な気持ちになりました。

毎年開催される「春の響き」に何回か足を運んだ頃でしょうか。

恩師の大橋先生に「あなたもそろそろ弾いてみなさい。音楽はきっとあなたの力になるわよ」と優しく背中を押されました。

 

先生は私が障碍のある子の子育てをしていることはご存知でしたから、決して無理なことはおっしゃっらず、いつも私を陰ながら応援して下さりました。

 

しかしながら、私はピアノを手放したことだけは先生にお話出来ずにいたのです。

 

ある時、先生が私のためにいつもより、小さ目なコンサートを企画して下さりました。

先輩方も私の状況を察して気を遣われたり、、

私は当時、小さなマンションに電子ピアノだけは買っておいてありました。

本当に久しぶりに、昔から好きだった、ショパンの舟唄を弾き始めました。

 

指も昔のように回らないけど、電子ピアノだけど、、「あ~やっぱり好きだ」

 

乾いたスポンジが水を吸うように、、

 

自分の心が潤っていくこてを感じました。

 

私は電子ピアノでも構わないから、子供にピアノを教えてほしいという、お友達のお子さん数人を教え始め、昼間子供がいない時だけ、自分の練習を始めました。

 

『復活コンサート』

 

私はグランドピアノでなくても、ピアノを弾きたい、という気持ちから同門のコンサートに出演を決めました。

楽器店に借りに行ったり、子供の学校でも隙あらば触って弾いていました。

 

久しぶりのレッスンで、先生にばれるのではないか、と、内心ヒヤヒヤしたものです。

私は子供の教育のためピアノを手放すと覚悟したものの、(復活するつもりもなかったので)罪悪感も後悔もなかったのですが、こうして又ピアノに向き合うことを望み始めると、ピアノを捨てた罪悪感に苦しみだしました。

 音楽の神様は私を許してくれるだろうか、、

 

私は毎日いつも祈るような気持ちで電子ピアノで練習を続けていました。

そして、12年振りに小さなコンサートに出演し、ショパンの舟唄を演奏しました。

 

母とさいたまの小さい頃からのピアノ仲間、ママ友達、数名が聴きにきてくれました。

私は音楽の神様~許して下さい。私にピアノを弾かせて下さい。と祈るような気持ちで弾き始めました。

 

演奏後、一度も褒めたことがない母が、初めて涙を流して褒めてくれました。

 

小さな頃からのピアノ友達も、「演奏中泣きそうになったよ」と涙ながらに話してくれました。

 

私は音楽の神様に許してもらえたか、わからないけれど、何か自分でひと山越えた充実感と喜びを感じていました。

しばらくして、主人が引っ越しの準備を決めていて、少し広めの市内のマンションに引っ越しました。

 

そして又私にグランドピアノを買ってくれました。

「まぁ国産だけど、いつか又ベーゼンを買ってやるよ」

いえいえ、もうこれだけのピアノで十分です。

 

私は又ピアノを取り戻し、次に繋げるコンサートと、生徒さんを本格的に教え始めました。

 

 

                                            つづく・・

 

講師紹介 武蔵野市つのゆみこピアノ教室

つのゆみこ